皆様、お待たせいたしました。ついに本日、Otamatone Video Competition 2012のサイトが正式オープンいたしました!
本コンテストはオタマトーンシリーズの新商品「オタマトーンデラックス」の発売を記念して、世界の人々にオタマトーンの面白さ、素晴らしさを伝えるべく開催するものです。
1.コンテストページ: http://www.alexcious.com/campaign/otamatone
2.募集対象: オタマトーン、オタマトーンデラックスを用いたオリジナルの演奏動画
3.応募資格: 国籍を問わず世界中のユーザー
4.募集期間: エントリー期間 2012年5月28日(月)~8月31日(金)
5.審査員(五十音順):
渥美幸裕 様
紀里谷和明 様
ケロロ軍曹
高嶋ちさ子 様
土佐信道 様(明和電機)
藤田健作 様(株式会社キューブ・オタマトーン開発担当)
松本蘭 様
横山幸雄様
AK 様
YOSHIKI 様
6.賞および副賞:
グランプリ 1作品 (副賞 世界にひとつのスペシャルオタマトーン)
審査員賞 10作品 (副賞 各審査員のサイン入り作品)
7.審査発表: 2012年9月中旬予定
審査員は「もう二度とこのメンバーで揃うことはないのではないか?!」と思うほど、超豪華な方々です。
世界中のユーザーに日本のプロダクトの素晴らしさを知ってもらい気軽にコンテストに参加してもらうため、サイトは全て英語で書かれていますが、日本の皆様、ふるってご応募ください。渾身の力作を楽しみにしております!
児玉
2012年5月28日
2012年5月27日
桐生市訪問
代表取締役社長兼CEO 辻野晃一郎
先週、群馬県桐生市に松井ニット技研さんを訪ねました。弊社のALEXCIOUS.comでも人気商品の美しいニット商品を生み出しておられる会社で、ニューヨークのMoMAストアなどでも話題になりました。桐生市までは、浅草から東武伊勢崎線に乗って開業したばかりの東京スカイツリーの真下を通って一時間半ほどで到着しました。桐生市は、現在人口12万人ほどで、古くから京都西陣と並び称される絹織物をはじめとした繊維産業の盛んな地ですが私は初めて訪れました。利根川水系の一級河川である渡良瀬川や桐生川などが流れる水に恵まれてのどかなとても美しい土地でした。松井ニットさんは、現在73歳になられる松井智司さんと5歳年下の松井敏夫さんのご兄弟が切り盛りしておられる明治40年創業の大変に歴史のある会社ですが、お二人ともとてもお元気でフットワークも軽く、作る側を智司さん、営業側を敏夫さんという役割分担であの美しいニット商品の数々を世に送り出しておられます。工場も見学させていただきましたが、40年、50年という歴史あるラッセル編機が編み出す独特の風合いと毎年のトレンドカラーとのコーディネーションをこのお二人が考案されました。そのご兄弟の末永くお元気なご活躍を祈るとともに、こういう世界に後継者が育つことを願わずにはおれませんでした。
先週、群馬県桐生市に松井ニット技研さんを訪ねました。弊社のALEXCIOUS.comでも人気商品の美しいニット商品を生み出しておられる会社で、ニューヨークのMoMAストアなどでも話題になりました。桐生市までは、浅草から東武伊勢崎線に乗って開業したばかりの東京スカイツリーの真下を通って一時間半ほどで到着しました。桐生市は、現在人口12万人ほどで、古くから京都西陣と並び称される絹織物をはじめとした繊維産業の盛んな地ですが私は初めて訪れました。利根川水系の一級河川である渡良瀬川や桐生川などが流れる水に恵まれてのどかなとても美しい土地でした。松井ニットさんは、現在73歳になられる松井智司さんと5歳年下の松井敏夫さんのご兄弟が切り盛りしておられる明治40年創業の大変に歴史のある会社ですが、お二人ともとてもお元気でフットワークも軽く、作る側を智司さん、営業側を敏夫さんという役割分担であの美しいニット商品の数々を世に送り出しておられます。工場も見学させていただきましたが、40年、50年という歴史あるラッセル編機が編み出す独特の風合いと毎年のトレンドカラーとのコーディネーションをこのお二人が考案されました。そのご兄弟の末永くお元気なご活躍を祈るとともに、こういう世界に後継者が育つことを願わずにはおれませんでした。

松井ご兄弟と共に(左が兄の智司さん、右が弟の敏夫さん)
近所の老舗の鰻屋さんでお昼をご馳走になる
2012年5月21日
雨の恵み屋久島
1997年に日本初の世界自然遺産の島として認定されて以来、絶大な人気を誇る屋久島。今年の連休中は、一日に最大1200人が日本一太い縄文杉を目指して歩いたそうです。
屋久島は「月に35日も雨が降る」と言われるように、平地で年間4000ミリ前後、山頂部では約10,000ミリもの雨が降ります。
先週、仕事で2年ぶりに屋久島を訪れた日も雨でした。
一時は鹿児島空港から飛び立った小型の飛行機が着陸できないかもしれないというほど。
しかし、予報に反して、屋久島空港着陸時には、霧も晴れ、雨も小やみになっていました。
取材旅行に雨は天敵ですが、屋久島は雨がとても“自然”なのです。
圧倒的な降水量を生かして、屋久島では年間発電量のうち、98.8%を水力発電が占めていることをご存じですか?
水力発電ではCO2が発生しないため、エネルギー面でもクリーンな屋久島に注目が集まっています。
最近では町を上げて、電気自動車を積極的に導入し、急速充電設備を整え、CO2フリーの島づくりに取り組んでいます。
私も電気自動車に乗せてもらったのですが、世界遺産の一部である西部林道を走っている時、窓を開けてもガソリンの匂いがせず、シダや苔の匂いをダイレクトにかげることに感動しました。
森の息吹と鳥の鳴き声は、頭の芯に響き、心を癒してくれます。緑色の風を吸い込み、しぼんでいた自分が徐々に膨らんでいくのを感じました。
道の駅やお土産もの屋さんで売られている屋久杉の加工品。現在は倒木や土埋木の一部しか使えないため、大変貴重なものです。
それだけに、ほんの小さなマスコット程度のものか、コースターやお箸など、あまり目新しいものは見つかりませんでした。
ALEXCIOUSで扱っているiPhone4/4S Timber Skin シリーズに屋久杉を使っているものがあります。木肌を生かしたシンプルなデザインとフィット感の良さで、ご好評をいただいています。

雨を恵みとし、長い年月をかけてゆっくり育つ屋久杉は、困難に負けず、少しずつでも成長し続けていくことの尊さを教えてくれるような気がしました。
越山昌美
屋久島は「月に35日も雨が降る」と言われるように、平地で年間4000ミリ前後、山頂部では約10,000ミリもの雨が降ります。
先週、仕事で2年ぶりに屋久島を訪れた日も雨でした。
一時は鹿児島空港から飛び立った小型の飛行機が着陸できないかもしれないというほど。
しかし、予報に反して、屋久島空港着陸時には、霧も晴れ、雨も小やみになっていました。
取材旅行に雨は天敵ですが、屋久島は雨がとても“自然”なのです。
圧倒的な降水量を生かして、屋久島では年間発電量のうち、98.8%を水力発電が占めていることをご存じですか?
水力発電ではCO2が発生しないため、エネルギー面でもクリーンな屋久島に注目が集まっています。
最近では町を上げて、電気自動車を積極的に導入し、急速充電設備を整え、CO2フリーの島づくりに取り組んでいます。
私も電気自動車に乗せてもらったのですが、世界遺産の一部である西部林道を走っている時、窓を開けてもガソリンの匂いがせず、シダや苔の匂いをダイレクトにかげることに感動しました。
森の息吹と鳥の鳴き声は、頭の芯に響き、心を癒してくれます。緑色の風を吸い込み、しぼんでいた自分が徐々に膨らんでいくのを感じました。
道の駅やお土産もの屋さんで売られている屋久杉の加工品。現在は倒木や土埋木の一部しか使えないため、大変貴重なものです。
それだけに、ほんの小さなマスコット程度のものか、コースターやお箸など、あまり目新しいものは見つかりませんでした。
ALEXCIOUSで扱っているiPhone4/4S Timber Skin シリーズに屋久杉を使っているものがあります。木肌を生かしたシンプルなデザインとフィット感の良さで、ご好評をいただいています。


雨を恵みとし、長い年月をかけてゆっくり育つ屋久杉は、困難に負けず、少しずつでも成長し続けていくことの尊さを教えてくれるような気がしました。
越山昌美
2012年5月18日
宮崎出張
先日、出張で宮崎まで行ってまいりました。九州は福岡、長崎は行ったことがあるものの、宮崎は初めてでした。東京よりも 2,3度あったかく、半分南国であるかのような気候で、気持ちのよい場所でした。あいにく雨風の中でしたが少し南の方を回ってきました。神話の舞台であったり、モアイがあったりとなかなか神秘的な場所で、バスでのんびりと旅してきました。
出張先の会社の皆さん、歩いていたらなぜか勝手に道を教えてくれようとするおじさん、行ってみたバーのマスター、みなさん温和な方が多く、食べ物も特にチキン南蛮がおいしかったです。
また、機会があればぜひ訪れてみたいです。
※ 今回食べそこねたので次回はぜひマンゴーも食べたいですね。
長野
2012年5月15日
パレスホテル東京
東京駅のほど近く、皇居のほとりのパレスホテル東京が5月17日にリニューアルオープンします。そのプレオープンに行ってきました。
ALEXCIOUSで紹介をさせて頂いている株式会社能作さんが地下一階に出店されたため、見学のお誘いを頂いたのですが、外観、内装、設備どれをとっても圧倒される程の素晴らしさでした。
落ち着いた雰囲気や皇居の緑が見える景色の美しさがとても好きで、時々カフェやラウンジを利用させて頂くことがあったのですが、その雰囲気はそのままに、豪華さ、利便性、スケールが更に増した空間になっていました。住所は千代田区丸の内1-1-1。この雰囲気が出るのもうなずけます。
能作さんの直営店は地下1階にあります。スタイリッシュででもどこか温かみのある能作さんの商品はパレスホテルの雰囲気にぴったりです。
日本の良さが感じられる空間がまた一つ増えました。東京駅近くに行かれることがありましたら、ぜひ一度足を運んでみて下さい。
北川
2012年5月10日
The 100th Anniversary of the Titanic’s loss
Did you know there was a Japanese gentleman
on board the RMS Titanic?
Born in Niigata-ken in 1870, Masabumi Hosono
graduated from Tokyo Higher Commercial School and, in 1897 started work at Japan's
Ministry of Communications. In 1906, he graduated from the Russian department
of the Tokyo School of Foreign Languages and, in 1910, was sent to Russia to
research their railway system.
Hosono was on his way home from this trip
when he boarded the Titanic.
On April 14, at 11:40 p.m., just four days
into its maiden voyage, the ‘unsinkable’ ship struck an iceberg while traveling
at near top speed and began taking on water. At first, few people knew there
was a problem, indeed Hosono slept through the entire thing in his second-class
cabin. At midnight, a crewman woke him and told him to put on his life vest
because the ship might be sinking.
Commonsense dictates that when a boat is
sinking, it's a good idea to get off. When Hosono tried to do so, guards twice
told him to go back to the lower levels of the ship. Naturally, it was women
and children first, but only if you had a first or second-class ticket, and had
white skin! On his third attempt, Hosono slipped past a crewman guarding the
way to the lifeboats.
Standing near Lifeboat No. 10, he watched
it being loaded. There weren't enough women and children from first or
second-class believing that the Titanic was going to sink, or perhaps they
didn’t want to leave their husbands and fathers.
"I tried to prepare myself for the
last moment with no agitation, making up my mind not to leave anything
disgraceful as a Japanese," he explained in a letter to his wife, "but
still I found myself looking for and waiting for any possible chance to
survive."
As there were no more women or children
left near lifeboat No.10, an officer shouted, "Room for two more!" Hosono
watched as an Armenian man quickly jumped in.
"I myself was deep in desolate thought
that I would no more be able to see my beloved wife and children, since there
was no alternative for me than to share the same destiny as the Titanic,"
he wrote. "But the example of the first man making a jump led me to take
this last chance."
So, Hosono jumped into the Lifeboat. “Fortunately
the men in charge were taken up with something else and did not pay much
attention. Besides, it was dark, and so they would not have seen who was a man
and who a woman.”
While the officers weren't paying much
attention to the color of his skin, the others on the boat did, later describing
him as a ‘Japanese stowaway’.
At 1:20AM, Hosonso and 34 other passengers
were lowered into the Atlantic Ocean in the Lifeboat (capacity 65). He began to
row with the only other male on board, and watched as the Titanic finally slipped
beneath the waves at 2:20AM.
Aboard the Carpathia rescue ship, he was
not just a survivor - he was a yellow-skinned Asian and the crew teased him. In
New York, the lack of interest in Hosono the survivor continued. He made his
way to the office of the Mitsui trading company where old school friends lent
him the money to travel home.
While waiting for a ship to leave San
Francisco, he told the Japanese community there his story. Back in Tokyo, he
gave an interview to the Yomiuri Newspaper, which also carried a photograph of
him with his family, and to a few other newspapers and magazines, then picked
up his life as best he could.
But apparently it’s not easy to survive a
disaster!
Hosono lost his job with the Ministry in
May 1913, but the government could not afford to drop such a highly trained
expert, who had just returned from a government-sponsored study trip abroad. He
was rehired the following month on a contract-basis, which continued until his
death in 1939.
But that’s not the whole story.
People began to wonder how some 162 women
and children were counted as dead after the Titanic went down, and yet 338 men
had managed to find their way onto lifeboats. Did they displace those women and
children to save themselves?
Guess who got the worst criticism?
While the Western media were critical of
the surviving men, Hosono was more or less ingnored. The strongest condemnation
came from his home country. This was 1912, remember, and the samurai had only
been dissolved for around 40 years! Hosono had broken two taboos:
1. He had chosen life over an honorable
death.
2. He had chosen life over death in public.
To the Japanese, Hosono had made Japan look
bad in the eyes of the world and was branded a coward, which was the reason he was
fired from his government job. Yes, he was rehired a month later, but the
damage was done – Hosono was never to recover his reputation.
Japanese university professors called him
immoral. An ethics textbook for girls in the 1910s condemned Hosono’s behavior stating
that it ‘disgraced Japan and the Japanese people’. Some suggested that he should
commit ritualistic suicide (hara-kiri) to reinstate to himself, his family and Japan.
His family was concerned about his
so-called cowardice, but Hosono wisely pointed out, “I am alive here and now,
what is wrong with that?”
Aside from the early days, Hosono refused
to talk about his experience aboard the Titanic, and died a broken and
forgettable man in 1939, which was okay by Japan as it didn't want to talk about
his cowardice and hoped the world would forget the country’s dishonor.
It's interesting to note that no country
other than Japan cared about Hosono's so-called dishonorable act, and despite
early newspaper accounts describing in detail the events presented here, Hosono
was largely a forgotten footnote in the history of the Titanic.
Now, a little over a 100 years since the
disaster, it's sad to recall the tragic loss of life, but it’s heart wrenching
to think of the hell one poor man was forced to endure for being a Titanic survivor!
The notes and letters Hosono wrote about
the event remained hidden at the bottom of a drawer until 1997 when his
granddaughter Yuriko made them public. Fascinatingly, they are written on
letter-headed stationary he took with him from the Titanic, and are believed to
be the only pieces of stationary to have survived the disaster.
Following the discovery of the letters, and
the success of the Titanic movie, Japan finally embraced Hosono - not as a coward
and a stain on the image of Japan - but as a survivor of the Titanic disaster.
David
2012年5月7日
北鎌倉と牛たんの話
先日、北鎌倉へ行く予定があり、早起きして集合時間前に円覚寺に行きたいなんて考えました。
お弁当に関しては人一倍こだわりの強い私は品揃えのいい東京駅のグランスタで買う事に。色々目移りしましたが吟味した結果、今回は伊達の牛たん弁当にしました。東京駅では仙台のメジャーな牛たん屋である「伊達の牛たん」「利久」「喜助」がどれも食べる事ができます。
いわゆる仙台の牛たん定食は、牛たん塩焼きに浅漬けと南蛮味噌が添えてあり、麦めしとテールスープというのがスタンダード。オプションでとろろを追加するとよりナイス。味がマイルドになります。
南蛮味噌とは、青唐辛子の味噌漬けになります。味噌を落とさずにそのままかじり、厚切りの牛たん(とても柔らかい!)と麦めしをお口に運ぶとそこには複雑な味の三重奏(トリオ)が奏でられます。麦めしにとろろをかけたら四重奏(カルテット)です。味もさることながらそれぞれの異なる食感に注意して味わうと、より美味しさを感じる事ができるでしょう。お試しあれ。
尚、ある資料では人気ランキングが喜助が1位になってますが、個人的に厚切りが好きな僕は利久が1位だと思っております。皆さんも食べ比べて自分の1位を決めてみてはいかがでしょうか。
おやつはBURDIGALA EXPRESSのカヌレドボルドー。
そしてお弁当を持って北鎌倉へ。ちょっと早起きして円覚寺に行ってきました。
この先が円覚寺
山門
仏殿
円覚寺 妙香池・虎頭岩
横山
2012年5月3日
ALEXCIOUSサポーターを募集しています!
私たちが運営しているALEXCIOUSは、
"日本の優れた資産をグローバルビジネスとしてプロデュースする"
というミッションに基づいたオンラインコマースサイトです。
世界中のお客様にサービスを提供するということを目標に、開設当初より英語でのWebサイト運営を行い、約190か国からのアクセス、数十か国のお客様からのご購入をいただいております。
現在私たちは、更にお取引先を増やして、世界中のお客様に販売する商品を増やすためのお手伝いをしてくださるサポーターを募集しています。
・日本の良さを生かして企画または生産された「モノ」や制作された「コンテンツ」
・日本的なユニークな発想や優れた技術・デザインに裏付けられているもの
・海外のものを日本の発想や技術やデザインで大きく改善したもの
・開発の裏話を紹介すると共感を呼びそうなもの
・世界に紹介したいがその手段やチャンネルに困っているもの
・海外のユーザーにも通用するよう、挑戦を重ねてきたもの
(仕事内容と条件)
・上記にあてはまるお取引先候補、商品を推薦、ご提案していただく仕事です。
・ご提案いただいたお取引先候補への連絡、営業活動は弊社スタッフにて行います。
・ご提案の商品が実際にALEXCIOUS上で販売に至った場合に手数料をお支払い致します。 *販売実績に応じた成果報酬
・勤務地は在宅となりますが、必要に応じて弊社スタッフとの電話、Eメールでのコミュニケーションをお願いする次第です。
“日本から世界へ” という物語を一緒につくりましょう!
応募フォームはこちらになります。
皆様からのご応募を楽しみにしております。
*すでにご応募いただいた皆様には改めて深く御礼申し上げます。
進捗状況については逐次ご報告いたします。
またサポーターの皆様へタイムリーに情報発信を行うために、Facebookグループの活用等の方法を検討しております。
詳細は追ってご連絡を差し上げますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
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