2011年6月10日

資本主義精神と伝統主義の狭間で

先日から読み進めている本の中に、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』があります。世界史や政治経済の教科書で名前だけは知っておられる方も多いと思います。その中で、私の目には新しい発見をしたので少し書いてみたいと思います。

時は19世紀が終わり20世紀の幕が開ける頃、ドイツの社会学者M・ヴェーバーはふとしたことに気がつきました。それは、カトリック教徒はいつまでも手工業に留まる傾向が強く、最終的には親方のような形になることが多いのに対し、プロテスタントは熟練工から経営幹部の地位を目指し、また資本家・企業家となる割合もカトリックに比べて非常に高いということです。

ヴェーバーはこの本の中で、その理由を「教育によって得られた精神的特性(特に地域・家庭の宗教的雰囲気)」に求めていきます。そしてなぜ中国にもインドにもスペインにもいた金儲けを追及する商人たちでは資本主義的発展を生み出せず、むしろ禁欲的なプロテスタントの世界(つまりイギリス・アメリカ)で初めて近代資本主義が発達したのか。その謎を“天職”と“禁欲”をキーワードに解き明かしていきます。

その中でハッとした分析があったのですが、端的に言えば上記経済発展の理由は内面的規範が影響しているということです。そう、プロテスタント諸国以外で資本主義的発展を妨げていたものは『伝統主義』というものだったのです。特に実際ドイツであったこととして、出来高賃金制を導入した際の人間の行動パターンについて、以下のような例が挙げられています。

ある企業家の畑に
1マルク/エーカーで刈入れを請け負う労働者がおり、
2.5エーカー/day分の労働をし、
2.5マルク/dayを稼いでいました。

企業家は収穫を急ぎたいと思い、出来高賃金を
1.25マルク/エーカーに引き上げ、
3.0エーカー/dayの分の労働をしてくれることを期待し、
3.75マルク/dayを支払おうとしました。

しかし実際にはその労働者は、
1.25マルク/エーカーもらえるのであれば、
2.0エーカー/dayの分の労働をし、
2.5マルク/dayという“伝統的な必要”を満たすだけの労働をしました。

このようなことから、ヴェーバーは「人は生まれながらにできるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなく、むしろ簡素に生活する、つまり習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものを願うにすぎない」としてします。そして近代資本主義が労働の集約度を高めることによって“生産性”を引き上げる仕事を始めたとき、それを妨げ続けたのはこのような伝統主義だったと言っているのです。

一方プロテスタントでは、与えられた場所でより高みを目指すことを善とする倫理を生み出し、天職の概念に基づいて労働そのものを自己目的化しました。それによりある種の“労働意欲”を喚起し、冷静な克己心と節制によってその労働能力を上げていったとしています。もちろんヴェーバー自身が指摘している通り、このような宗教的基礎づけはすでにこの本が書き上げられている段階で不要となるほどに資本主義精神は広まっているのですが。

資本主義と人間の行動に対するヴェーバーの分析は、顧客に新たな行動の変化を求める新規営業からチームマネジメント、また長時間労働に対するライフワークバランスのあり方や、地方と都市の経済格差などを考えるうえヒントを与えてくれる気がします。

関口